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菅野哲正プロフィール

菅野哲正(かんののりまさ)の歴史

こんな人間です

 私・菅野は昭和42年10月に福島県いわき市で生れました。

 血液型はB型です。
 父も母も弟・妹と家族全員がB型だったので、恐らくBBなのでしょう。
 血液型はB型ということから間違えられたことがあまり無い性格です。

 小学校、中学校ととにかくけんかの多い子どもでした。
 小学校時代はけんかをしない日が無かったのではないかと思うくらい、よく暴れていました。

 基本的に、かなり負けん気が強く、勝つまでやめないような性質です。
 今も根本的には変わっていませんね。
 けんかが多いことではなくて、負けん気が強いところです。

華々しかった中学時代

 いわき市立内郷一中の卒業で、中学時代は、野球部の主将、生徒会長と華々しい感じでした。
 当時の中学は、生徒数1,000名を超え、野球部員はなんと100名くらいいました。

 素材の良い同級生が多かったものの、練習が貧弱だったので、あまり良い戦績は残せませんでした。

野球漬けだった磐城高校時代

 福島県立磐城高校に進み、野球に没頭した高校生活を送りました。
 当時の監督は「小さな大投手」で有名だった、昭和46年の甲子園準優勝投手、田村隆寿監督でした。丸3年間、ずっとお世話になりました。

 当時の田村監督は30才になった頃だったと思いますが、とにかく怖かったです。

 高校野球のスタートは、忘れもしない、高校の合格発表が3月19日、その翌々日から練習に参加しました。
 某中学時代からの先輩の陰謀によるものです。
 「もうみんな練習に来てるぞ!」と・・・

 ところが練習に行くと、一人しかいませんでした。
 それはそうです。まだ入学前なんですから。

 その後を思い出しても、入学前から練習に来ている人間は少なかったですね。

 その一人いた人間が、我々の代でキャプテンをすることになった、金賀君です。
 金賀君は根性がありました。
 金賀君は立教大学に進み、大学でオールジャパンに進み、ドラフトにかかろうかという逸材でした。
 ナイスガイです。

 ところで、高校の野球部では、ジャンプ1,000回やベースランニング108周など、今でも伝説になっている練習をやらされていました。
 ジャンプと言っても、膝を胸までつけるようなジャンプです。
 しかも夏の暑い日で、練習もさあ終わりだという頃です。

 その日は監督が怒ったのですが、怒らせた犯人は、当時エースだった古内さんだったようです。
 古内さんには貸しができましたね。

 翌日、10人くらい同級生が辞めていきました。

 自分の人生の中で体力的には本当に苦しい時代です。

 夏は当然暑いのですが、練習前はなぜか寒くなるような感覚が抜けませんでした。

 戦績は、努力の甲斐が実り、お陰さまで甲子園に出場することができました。

 残念ながら甲子園では1回戦で姿を消してしまいました。

 とにかく野球だけの高校時代であり、青春時代は野球と共に消えたという生活でした。

バンド活動と猛烈だった大学入試勉強

 野球を終えてから猛勉強に入り、現役で国立の茨城大学 人文学部社会科学科に進みました。

 野球を終わった頃、とてつもない虚無感に襲われ、何もする気力の起きなかった自分は、夏休み明けの試験は、なんと偏差値が38だったのを覚えています。

 気持ちが切り替わらないので、勉強なんかできません。

 そこで、同級生でバンドをしていた友人が、歌って踊れる自分を待っていたようで、一時期バンド活動をしました。
 楽器ができないので、ボーカルです。

 歌って踊れるというのは一つの特技ですね。
 その後自分の人生をどれだけ助けたか分かりません。

 10月に文化祭「高月祭」というのがあって、そこで声も出ないくらいに燃え尽きた自分は、それから猛然と受験勉強に突入しました。

 当時は、「目から血が出るほど勉強してやる!」
 という勢いで勉強しました。

 本当にひたすら勉強しました。

 実家が経済的に楽では無かったので、国立大を目指していましたが、とにかく背水の陣で自分を追いたてて勉強しましたね。

 当時の共通一次試験は1月の末だったように記憶していますが、猛勉強が実り、670点くらい取れたんですね。

 それで茨城大学を志願し、茨城大学の二次試験も無事に通過して、大学に進むことになりました。
 茨城大学では人文学部社会科学課、ゼミは「経営学」を専攻です。

 猛勉強をしたといっても、実質4ヶ月のみで、短距離を駆け抜けた感じでした。
 偏差値38からの国立大4ヶ月合格は伝説になったようです。

ダンスとバイク、バイトに明け暮れた大学時代

 大学時代はなぜかモダンバレエ部に所属し、かなり本気でバレエに打ち込みました。
 なぜ野球を続けずにモダンバレエを、と良く聞かれますが、これは大変永くなる話なので割愛させていただきます。

 かいつまんで言うと、新たな道で一流になりたかったのです。

 周囲からは「きちがい」とか言われていたようです。

 大学時代は貧しくてアルバイトを330日くらいはしていたように記憶しています。

 そしてバイクが好きで、スズキのRG-γ(初期型)に乗り、峠を良く走っていました。
 バイクが好きな人達はみなそうなんでしょうけど、こけると自分の身体よりもバイクが気になっていたような感じでした。

 ダンスも熱中しましたね。

 ダンス部というのは、遊びのサークルかと思われることも多く、この文面をお読みの方も、ふざけたサークルだと思われるかもしれませんが、実は体育会バリバリの部活動です。

 野球で鍛えていた自分にとっても、なかなかつらい練習でした。

 特にそれまで鍛錬することの無かった、柔軟性、そしてゆっくりの動きはつらかったですね。

 モダンバレエは創作舞踊なわけなのですが、創作舞踊は、これまでなかった芸術的な一面の興味を掻き立ててくれたものの、自分は芸術的な素養は全く無くて、自分の能力の無さを痛感もしました。

 しかし後に、歌って踊れるセールスマンを作る下地となったものです。

 何かにつけて熱中する習性がありまして、卒論は「ポートフォリオの基礎知識」と題し、都合200ページに及ぶ卒論を書きました。

 自分の頃の就職状況は昭和63年に就職活動でしたので、求人が非常に多い、いわゆる「超売り手市場」だったことを強く覚えています。

 金融機関を中心に歩きまして、最終的に「三井生命保険相互会社」にお世話になることに決め、入社に至りました。

三井生命保険相互会社に入社(平成2年)

 三井生命時代は同期入社191名でしたが、一番元気が良かったのだと思います。
 なぜか同期会会長なんて言われ盛り上げてました。

 4~6月まで入社初期の訓練があるのですが、保険の募集訓練でした。

 東京・新橋のあたりを募集して歩いたのですが、水を撒かれ塩をかけられ、自分の人生観が一気に変化した、本当に貴重な体験でした。

 その後営業畑をひた歩くことになるのですが、今振返ると多大な勉強をさせていただいことに深く感謝する次第です。

 しかしながら当時は本当に嫌なことが多かったですね・・・。

 会社生活の最初の配属地は秋田でした。
 秋田は縁もゆかりも無い地です。

 なぜ秋田に配属させられたのか、それはすぐに分かりました。
 猛烈な上司の下、全国で一番つらい支社と言われていたからです。
 あれだけ元気が良ければ持つだろう、と選ばれたに相違ありません。

 あの時代は暗黒で、思い出すことも憚れます。

 何度会社を辞めようと思ったか分かりません。とにかくつらかった・・。

 しかしながら母親に「選んだ道を3年も続かない情けないことはするな」と叱責され、とにかく3年は続けようと思い、なんとか持ちました。

人生固めをしてくれた土浦支社時代

 続いての配属地は土浦支社です。

 ここでの出会いは劇的であり、今の自分を固めてくれた時代でした。

 当時は地方に行くと本社へ行き、本社配属者は地方勤務になるという不文律があったのですが、なぜかそうなりません。

 会社の方策で、強い営業リーダーを育成するため、営業現地に配属するとなったからです。
 その第一期生に選ばれたということでした。

 自分は本社の資金運用部門か人事部でも行くのかと想像していただけに、ショックは計り知れない大きなきなものとなったのです。

 いわゆる 支社 → 支社 の配属は、忘れもしない191名中の16名でした。
 選ばれし戦士たち、とか言われたのを強く覚えています。

 心の中は、「何が選ばれし戦士だよ!・・」です。

 お察しいただければありがたい限りです。

 しかし万事塞翁が馬ということでして、この土浦時代は本当に自分の力を開花させていただいたわけです。

 今でもお付き合いをさせていただいてる、百花繚乱のような人財がいらっしゃいました。

 どのくらい酒を呑んだかわからないくらい時期でもありました。

 3月の寒い中池に飛び込み、その足で飲み屋に行き、困ったママが黒のゴミ袋を上下穴を開けてくれ、それを服代わりにして騒いでいたというまさにハチャメチャ男の代名詞のような感じでした。

 副所長として営業所を4場所回りました。

 軌道に乗ると次の店という様子でとにかくつらい時代でしたが、ここで営業のノウハウを学ばせていただきました。

 実は土浦時代に妻と出会っており、人生において非常に重要な時期でした。

 土浦は2年半所属し、営業所長になる前の最後の訓練となる柏へ向かいました。

所長前最後の仕上げとして柏支社へ

 柏は半年です。
 柏時代もつらかったです。

 恐らく休んだのは半年のうち10日くらいではなかったでしょうか。猛烈な半年でした。

 そして相場観を一気に変えてくれた地です。

 それまでを10とすれば、数字の価値は100くらいの営業所だったのです。
 もっとわかやすく表現すれば、今までの保険料相場が2万円だとすると、20万円になったという感じです。

 それだけダイナミックな募集、それを可能にした良い顧客とのつながりがあったんですね。

 ここでも良い出会いに恵まれ、大きな苦情があり自分がその処理に回っていても、関連する方は遅くまで待ってくれていて、
挙句に「菅野さんなら絶対に解決すると思って待ってたわよ!」と、

 男気に火をつけられまくるような営業所でした。  みんな元気かな・・

27才で初陣の営業所長へ

 そして27才にして営業所長へ。
 全国でも2番目に若い所長とか言われました。

 場所は栃木県宇都宮市南部の石橋町、管区に上三川や壬生町がありました。

採用との戦い

 この1場所目は本当に採用との戦いでした。
 当然売上の数字との戦いでもありました。
 リーダーはこんなにつらいのか、と痛感した期間でした。

 石橋営業所は当時12名の陣容死守をきつく言われていました。

 しかし着任すると、なんか10名しかしないし、うち2人は退職申出だし、
「えっ、ん~?!」というスタートでした。
「本当ですか~・・・」

 そして若気にはやる自分は結果を急ぎ、所属員との関係を日に日に悪くしていくのでした。

 やればやるほど空回りという事態で、本当に困り果てました。

 そして所属するセールスレディからは、「所長、お話が!!」と機関銃のようにいつも言われ、それに対して向こう気が強いものですからいつも喧嘩ばかりで自分が所長時代には、泣かない所属員はいないと言われる始末です。

 そんな自分でしたが、この店をつぶしてはいけない! 何とか陣容拡大して石橋営業所を強固にして会社にお返ししなければ!

 と強く念じていました。

 とにかく仕事をした4年間でした。
 朝は8時前に会社に入り、会社を出るのが夜中の0時か1時、体力的にも充実していたこともあって、猛烈に働いていました。

 まあ世の中にはさらに猛烈な方が多いことも痛感したことがありますが・・・

 ここでの試行錯誤が、その後に大いに役立ちました。

 購買者心理の心理の深い理解が出来、対面をベースとしたコミュニケーションスキルの獲得、説得についてのスキルアップなど、現在の素養をほぼ固めてくれた時期です。

 生命保険会社の営業所長は、資金繰りの心配のいらない経営者という側面を持っていたように思います。

 自分で様々な企画をし、採用、教育訓練、仕掛け・仕組みの構築、売上についての責任など、経営者そのものの役割を経験できた意味では、大変貴重な期間だったと思います。

 これは独立してから分かったのですが、経営者の本当の苦しみは資金繰りの苦しみですね。

 資金繰りの、死ぬような経験をしていなかったということは、経営者の真似事であったことは否定できませんが、機能的役割に関しては、その責任や業務範囲などからして、経営者の真似事が上手く体験できたのだと思っています。

 石橋営業では4年間勤務し、4年目ではかなり業績も好調で、戦う集団として脱皮できました。
 最初はなんでこんなに仕事しないんだ・・
 と思っておりましたが、最後は本当にみんなが自分自身に負けずに頑張ってくれたと心から感謝しています。

 5年目を希望しましたが聞き入れられず、神戸の三宮営業所に転勤となりました。

 阪神大震災が1995年で、その年に息子が生まれましたが、それから7年の時を経て、神戸の地で仕事をさせていただくことになったのです。

(以後の歴史は執筆中です・・)

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