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営業力と説得力

営業とは人の心を動かすこと

 営業とは、人の心を動かす仕事です。

 機械には決してできない、人間だからこそできる素晴らしい仕事です。
 営業を通じて、自分自身のことも含め、人間のことについて勉強できることは非常に価値のあることです。
 人の心を動かすことが少しでもわかれば、仕事だけではなく自分の人生に必ず優れた効果をもたらすはずです。

 名刺一枚でいろいろな世界を見ることができる。
 それが営業の一番の魅力かもしれません。

 特に自分が経験した保険営業は、対象者が限られていませんから、生活や生き方、地位や立場の全然違う、普通ならば絶対に巡り合わないような人に出会うことができました。

 『人間は一生のうちいったい何人の人と出会うことができるだろう』と想いを巡らすと、生命保険のセールスは本当に素晴らしい仕事だったと感じています。

 仕事で得られた『情報』や『人脈』、また仕事を通じて勉強できる『社会性』や『対人折衝能力』は、あらゆる職業に生かせる"資格"と言えます。
 セールスで学んだことは、間違いなく、自分自身の将来にプラスになるはずです。

 特定の組織だけにしか通用しないような力を「営業力」などと解釈させているのは、今後、大きな矛盾を生み出すでしょう。
 さまざまな形態でいろいろな業種が業界に参入してくるような時代には、基盤定着のルートセールスだけでは「営業力」とは呼べないのです。
 市場開拓力を含めた、「本当の営業力」を教える時代なのかも知れません。

営業の基本は社会人の基本

 広い意味で、「営業力」とは、その人の「社会性」や「人間力」を表したもの、と言い換えることができます。
 新入社員を相手に、話をする機会があれば、必ずと言っていいほど、「営業の基本は社会人の基本」という言葉を投げかけました。
 部下が社会人としての基礎ができていなければ、どんな募集上の知識を植え付けたところで、結果は知れているからです。

 「初対面で相手と人間関係を作る」などという抽象的なテーマは、話法や資料で作れるものではありません。
 意外と、多くは、この段階で壁にぶつかっているのが実態でしょう。
 社会性の低い人物にとっては、雲をつかむような話かも知れないのです。

 多くの人材にとっては、「営業」に向いていないのではなく、「社会」に向いていないのです。

 「職員が直面している課題」を「職種のせい」だけにさせないことも、育成時にとても重要だと考えていました。

育成とは「生き残る術」を教えること

 得意分野が「対人折衝能力」というのならば、まず、ほとんどの職場で力を発揮することが可能でしょう。
 そのレベルが高ければ、ある分野で一生飯を食えると断言できます。

 逆に、その面が苦手という場合、一般市場を相手にするサービス産業で高い評価を受けることは、極めて難しいといえます。
 売っている商品やビジネスの仕組みに、優位性を保てる時点までなら、どんな商売でも同じことがいえます。

 もし、「黙ってでも売れる商品」があり、「黙ってでも売ってくる営業マン」がいるのならば、「対人折衝能力」など、それほど重要なことではないでしょう。
 過去の日本には、そういった会社も多かったといえます。

 今あらゆる業界に最も要求されているのは、「真のサービス産業としての再構築」です。
 これから先、世間に対して表現力のない人材が、君臨することなどあり得ないでしょう。

 そして育成とは、生き残る術を見に付けさせることです。
 生き残る術を語り合えているでしょうか? 教えてられていますか?

本当の説得力

 対人折衝能力は、その人が持つ「説得力」と言い変えることができます。

 もちろん、口先だけではありません。相手の心理を把握できなければ、単なる「おしゃべり」です。
 人間の心理を把握するためには、まず、目分を知ることだと考えます。

 自分を知るといっても、「自分が見た自分」ではなく「他人から見た自分」です。
 それに興味がない人は、対人折衝の時、相手を自分の主観で見ることしかできません。
 自分と相性が合うとか、好きなタイプかどうかなどが、常に頭の中に先行し、「苦手な相手にはまるでダメ」というパターンにはまります。
 「他人から見た自分」が分からなくて、他人の心理が分かるはずはありません。
 自分白身を客観的に見る目を持っているから、相手も客観視できるわけです。
 説得や議論をしている時、どんなに熟が入っても、冷静さを失ったら負けです。

 熱を冷ますのは、唯一、「自分自身への客観視」なのです。

 勘違いしている人がいます。

 「説き伏せる圧力」と「説得力」は必ずしも同一ではありません。

 主体性のない人物になら、プレッシャーは効果的でも、自分に自信を持った人物には逆効果になることもあるからです。
 依存心の強い人を説き伏せたからといって、「説得力がある」と錯覚してはいけません。

 持論のレベルが高い人材にはまるで歯が立たず、単なる「生意気な人材」と片づけて、プライドを維持しているようなケースもあるでしょう。
 「他人から見た自分を知る」というテーマは、普通の人間が特別なことをしなくてもいい、社会でうまくやっていくための方法論でもあります。
 その答えが正解であれば、よほど変な相手でなければ、人間関係の摩擦はなくなるでしょう。
 カルト集団でもない限り、組織内で自分の個性を活用する最適の方法も見つかります。

 その認識に大きなズレのある人は、周りが感じるところの、自分の長所も欠点も見えていないから、がんばっても無駄な努力をすることになります。
 ボタンの掛け違いというのは、大半は、その勘違いから始まっているのではないでしようか。

 自分の欠点に気づいているとしても「事の重大さ」までは認識していないから、自分の趣味趣向を優先させてしまうのが関の山でしょう。
 「周りが悪い」という結論にすり替えるのも、「他人から見た自分」が見えていない証拠です。
 だからといって、他人の目を気にし過ぎるのは「自意識過剰」です。
 周りが知りたくもないようなことまで、本人が意識しているとしたら、それも「他人から見た自分」が見えていないわけです。

 周りに対し、「被害妄想」になっている人間であることも、他人からはよく見えるわけです。
 また、ある人が非常に説得力のある言葉を表現したとします。
 別の人がそっくり真似をしたからといって、必ずしもパワーがある言葉にはならない場合があります。
 「言葉」は、「人物」とセットになって初めて、「説得力」に変わるからです。

人事権に説得力があることの勘違い

 偉くなると、人の話を聞かない人も多いわけです。

 生保機関長の時、「菅野君と話をしてみたい」と言われ、何人も偉い人に会いました。

 そこで感じたことは、「相手が興味あるないに関わらず、自分の話を一方的にする人物が多い」ということです。
 こちらには口を挟む余地を与えず、小一時間話し続けて、最後に「今日は菅野君、勉強になったよ」で帰っていくわけです。
 下々とは議論などする気もないのかもしれません。

 その人には何の説得力、人間力も感じないどころか、「死んでもこんなオヤジにはなりたくない」と思ったのも事実です。

 逆に、会話の時は肩書きが自然とはずれる人がいます。
 相手がどんなペーペーだろうが、目線を合わせ、一人の人間として尊重し、話に耳を傾けることのできる人もいます。

 だから、言葉は少なくても、分かりやすく、心に響くわけです。
 それを「真の説得力」と捉えます。
 「こんなオヤジになりたい」と、私ならあこがれます。

 部下が黙って聞いているからといって、上司に説得力があるとは限りません。
 大方は、人事権に説得力があるだけでしょう。

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