「プロとは、どんな状況でも高みを目指し続け、たとえ『クビ』が差し迫り、それに気づいていたとしても、最後まで戦い続けることが大切。」

 その通りだと思いながら記事を読ませていただきました。うちの従業員にも読ませたいので、引用させていただきます。ありがたいお話しであり、見習いたいプロ魂です。

 元記事は以下のURLです。
 「東大卒のプロ野球選手が戦力外の末に得た夢」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180208-00207469-toyo-soci

東大卒でプロ野球の世界を経験した松家卓弘さん

指定校推薦で慶應義塾大学に進もうとしていた夏

 「プロに行く勇気がないなら、勉強せえ。勉強から逃げるな」

 甲子園を懸けて戦った2000年夏の県大会は3回戦で敗れた。香川県随一の進学校である高松高校にいながら、プロからも注目される松家卓弘は、指定校推薦で慶應義塾大学に進もうと考えていた。そんな松家に、当時の副担任が檄を飛ばしたのだ。松家は東京大学一本に進路を絞った。

 これまでの高校生活のほとんどを野球に費やしてきた松家にとって、それは無謀なチャレンジに思えた。模試の判定は最低評価のE判定、東大への挑戦が始まった。

 「解けない問題を集め続け、ひたすら足りていないところを満たすことに集中した」

 敗退翌日から一切ボールに触れることはなかったという。松家は見事、東京大学文科二類に現役で合格した。

 大学卒業後はプロ野球選手になると決めていた。しかし、現実は容赦なく夢の上に覆い被さった。

 「ずっと、“勝つ”という思いをもって野球をしてきたし、それが普通だと思っていた。でも、東大野球部は必ずしも全員が勝つことを目的としている組織ではなかった」

 東大野球部で、松家のような選手は異例だった。負けるのが当たり前の組織で、勝つ意思を前面に出す松家はチームの中で浮いた存在となった。募る不満はあふれ、ついに1年生の松家は4年生のキャプテンに辞めることを告げに行った。

 「辞めるのは勝手だが、今辞めたらただの負け犬だぞ」

 文句ばかりで、行動も結果も伴っていない自分に気づかされた。それでも東大が勝つことは簡単ではなかった。

 松家は4年生になった。「このチームは、勝ちに行くチームなのか、全員に野球をやらせるチームなのか、目的をはっきりさせよう」。6大学の他のチームでは起こるはずのない東大野球部の歴史を変える議論が行われた。

 「東大生は納得しないと動かない。チーム全員での議論で俺たちは“勝ちに行くチーム”になることを決めた」

 目的が決まった組織は、ぶれなくなった。勝てる選手が試合に出場し、その他のメンバーはサポートにまわった。勝つ確率の低い東大に進んでまで野球を続ける控えメンバーの、野球への思いは十分わかっていた。それでも、チームは勝つほうを選んだ。

 「確率が高いとか低いとか、関係なかった。“絶対勝つんや”その思いだけで投げ続けた」

 この年、松家は3勝を挙げ、東大は年間で5勝した。

 ドラフト9巡目。2004年のドラフト会議で横浜ベイスターズ(現DeNA)から指名を受けた松家は、揺れていた。国際協力銀行(JBIC)から内定をもらっており、業務内容にも興味をもっていた。

 「常識で考えれば、就職。周りの意見も割れた。でも、信頼している人は全員、“自分で決めろ”だった。迷いの中で1つだけ確かな思いがあった。野球を選ばなかったら必ず後悔する」

 プロに行く。祖母からは「東大まで行ってなぜ野球をやるのか」と不思議に思われたが、心は決まった。

 「プロに行くからには、選手として勝負する。東大出身という肩書では絶対に見られたくなかった」

 ドラフト会議での話題性や、将来の球団職員見込みでのドラフト指名という可能性もある。球団が本当に選手として評価しているのかを「さまざまな手を使って確認した」という。それだけ、松家にとっては重要なことだった。

 松家は史上5人目の東大出身プロ野球選手となった。

最後までこだわった、プロとしての「終え方」

 「オマエ、プロ野球に何しに来たんや?」。プロ入り後、度重なる故障に悩まされ、まったく結果を出せない松家は、チームのレギュラーからそう言い放たれたこともある。「東大出身という肩書を毛嫌いしていた」と振り返るも、その肩書はついて回り、自身もそれにさいなまれていた。

 「実力で勝負したい。結果が欲しい。でも、結果が出ない」

 結果に執着し、もがいていた松家を救ったのは、当時2軍監督だった田代富雄だった。

 「田代さんは、結果のことは一切言ってこない。戦う姿勢、攻める姿勢があれば、どんどん試合に使ってくれた」

 しだいに本来の力を発揮し始めた。最速152キロのストレートと鋭く落ちるフォークを武器に、攻め続けた。その姿を見て、周囲は「そういえば松家は東大出身だったな」というように変わってきたのを当時チームメートだった私は記憶している。

 2009年シーズン終了後にトレードで北海道日本ハムファイターズに移籍。1軍で登板していただけに、期待されていたが、早々に指先をケガしてしまった、これが引き金となり、以降は肩やヒジの故障を繰り返した。移籍してから3年目の2012年、この年での戦力外通告は誰の目にも明らかだった。

 「戦力外通告が迫り、腐って辞めていく選手を何人も見てきた。俺は最後の最後まで野球選手らしくあることを決めていた。辞め方は俺にとってとても重要なことだった」

 松家にとってプロ野球選手とは、どんな状況でも高みを目指し続ける人。たとえ「クビ」が差し迫り、それに気づいていたとしても、最後まで戦い続けた。そして同年10月、球団から戦力外通告を受けた。同じ日、日本ハムはリーグ優勝を果たした。テレビから流れてくる仲間たちの歓喜の中で、「野球をあきらめきれない」松家の野球人生は、いったんの区切りを迎えた。

いつも笑う人間がいたけれど

 「日本ハムに行って、内部で人を育てないと組織は成長しないとわかった。外から人をとるのには限界がある。人の育成、教育、その領域にすごく興味があって、魅力を感じていた」

 松家は現在、香川県立香川中央高校で教員の職に就いている。引退後、通信課程で地歴公民科の教員免許を取得。2015年度香川県教員採用試験を受験し、見事合格を果たした。

 「東大受験のときと同じくらい勉強したよ」。笑いながら語るが、その年の採用が松家1人だったことを見ても、いかに狭き門だったかがわかる。

 「大学生のときは、“都落ち感”があり、香川で仕事をすることなど、考えていなかった。だけど今は『俺が変えればいい』と本気で思っている」

 熱を帯びた声が、誰もいない職員室に響き渡る。
 「香川県知事や、香川県を牽引する人間を育てる。香川県を内部から変えていく。それが今の目標」

 周囲の人間には笑われるという。しかし、東大に行くと言ったとき、プロに行くと言ったとき、教員になると言ったとき、そこにはいつも笑う人間がいた。その度に、「闘志」で切り開いてきた。それは、決して答えのある世界ではなかった。

 「教員、めっちゃオモロイで!」
 松家は前のめりになって話を続ける。職員室の外では、部活動の掛け声が響いていた。(敬称略)