ミスター長嶋茂雄さんの覚悟を今さら知り涙にむせぶ

ミスター長嶋茂雄さんの覚悟を今さら知り涙にむせぶ

勝負師ミスター長嶋さん、凄すぎる

 さすがはミスター長嶋茂雄さん、泣ける。
 この覚悟を知って泣かざるは、闘う人間にあらず。

「いくらでも俺を憎めばいい」…ミスタープロ野球・長嶋茂雄が秘めていた、凄まじい「覚悟」

2022/9/26(月) 16:33配信

「いくらでも俺を憎め!」

講談社資料室蔵

’78年は、リーグ優勝からも遠ざかり、オフには「江川卓・空白の一日」事件が発生した。フロントが日本一奪還を狙って考え出したことだったが、批判の矢面に立たされたのは長嶋だった。
阪神へトレードに出された小林繁を気遣い、「いつかまた、同じユニフォームを着て戦おう」とひそかに電話を入れた。
翌年に小林が肘を故障した際には、敵チームであるにもかかわらず、巨人時代の専属トレーナーにポケットマネーを手渡し、「大阪で小林を治してやってくれ」と告げた。
結局、’79年も巨人は低迷し、5位に終わる。まさしく、どん底。8月1日の広島戦では、不甲斐ないピッチングをした西本聖と角盈男を自室に呼び出し、平手打ちの雨を降らせるという「事件」が起きた。

「叩かれながらすごい形相で睨み返す二人に、ミスターは『いくらでも俺を憎めばいい。悔しかったら死に物狂いで練習しろ』と涙ながらに奮起を促したそうです」(前出・巨人軍関係者)
チームを強くするためには、監督の自分が、選手にどれだけ憎まれてもいい―。
長嶋のその覚悟を象徴するのが、この’79年シーズン終了後に行われた「地獄の伊東キャンプ」である。そこで長嶋は、平均年齢23・7歳の若手18人を徹底的に鍛え上げた。キャンプに参加した篠塚和典氏が話す。
「王さんは選手としてもう晩年で、他のV9戦士も次々に辞めていく、世代交代の時期でした。そんな状況の中、ミスターが直接『お前たちがこの先10年、15年のジャイアンツを担っていくんだ』と話してくれた。もちろん練習は苛烈を極めましたが、気合が入りました」

泣く「青い稲妻」、キレる中畑清

江川と西本は一日300球を投げ込み、松本匡史は泣きながらバットを振った。1000球近いノックを受けた中畑清は、「コノヤロー」と怒鳴りながらキャッチャーではなく長嶋にボールを投げ返した。

こうして血の滲むような努力を重ねた若手が原動力となり、巨人は日本一に返り咲く。皮肉なことに’81年、長嶋が成績不振で解任された翌年のことだった。
巨人軍を離れると、大洋ほか7球団から熱烈なオファーを受けたが、山崎豊子作『不毛地帯』のモデルとされる伊藤忠商事相談役の瀬島龍三から、
「広い世界を勉強してから野球界に戻るべきだ」とアドバイスされ、12年の浪人生活に入る。リポーターとして世界陸上を取材するなど世界中を飛び回ったが、野球を忘れることはなかった。
’92年の10月、読売新聞社社長(当時)の渡邉恒雄は、翌年に開幕を控えるJリーグによって野球人気が低下することを危惧し、長嶋に監督再登板を打診する。

〈「プロ野球を愛しているから」これはキザではない。(中略)まさに大義名分のためにジャイアンツのユニホームを着た〉(前出・著書)

かくして’93年シーズンから再び巨人軍を率いることとなった長嶋は、初仕事のドラフト会議で星稜高校の松井秀喜の交渉権を引き当てた。
「ミスターが再び監督になると聞いた時、私は選手たちに第一次政権時の苛烈な指導法を念頭にしたアドバイスを行いました。
しかし、蓋を開けてみれば、ミスターの方針はガラリと変わっていた。選手とは距離を置き、指導はコーチに任せるというスタンスになったんです」(前出・篠塚氏)

20年目の悲願達成

長嶋は監督再任にあたり、若手選手だけでなくコーチや次世代の監督を育成することを目標に掲げた。これは見事に達成され、後を継いで監督に就任し、通算勝利数で長嶋を上回ることとなった指導者・原辰徳を生んだのだった。
監督復帰1年目の’93年は打線の低迷に苦しんで3位に沈んだが、翌’94年にはFAで獲得した落合博満の活躍や、2年目の松井の台頭、エース槙原寛己の完全試合達成などで勢いに乗り、首位を独走した。

ところが、8~9月に球団19年ぶりの8連敗を喫すると、中日が驚異的な追い上げを見せ、129試合を終えた時点で同率首位となる。
優勝の行方は、最終戦の直接対決に委ねられた。
「試合前のミーティングで、監督は『大丈夫だ。今日は絶対に勝つ』と話しました。それだけの内容でしたが、選手たちは安心し、笑顔になった。それだけ監督の言葉には力があったんです」(前出・三井氏)
長嶋はこの「10・8決戦」を制し、見事に優勝を飾った。勢いそのままに臨んだ日本シリーズでは、西武を4勝2敗で下し、長嶋は初めて「日本一の監督」となった。

栄光に包まれた現役引退、監督初就任から、20年の月日が経っていた。
「あの時、チーム全員が『監督のために』という思いを持って戦い、長嶋さんを日本一の監督にすることができた。プロ野球の歴史でミスターほど偉大な存在は、もう二度と出てこないと思います」(前出・篠塚氏)

時に憎まれながらも、不屈の精神で栄冠を?み取った長嶋は、必ず、再び元気な姿を見せてくれることだろう。

「週刊現代」2022年9月24・10月1日号より

学び

Posted by norimasa_kanno