本当の学問とは (安岡正篤先生「知命と立命」より)

2020年6月21日

 自分も45歳を迎え、不惑から知命への折返地点となった。

 なんか心に渇きを覚えていたところなので、久々に安岡先生の「知命と立命」を読み込み、自分に叩きこまなくてはいけないと感じるところを、ブログやユーチューブを活用して残しておきたいと思った。

 荀子が、本当の学問というものは、立身出世や就職などのため(通のため)ではなく、「窮して困しまず、憂えて意衰えず、禍福終始を知って惑わざるがためなり」と言っているのであります。
 窮して苦しまないということ、憂えて心衰えないということ、何が禍いであり、何が福であり、どうすればどうなるかという因果の法則-禍福終始を知って、人生の複雑な問題に直面しても、敢えて惑わない、という三条件を提出しているのです。
 これは我々にとってまことに痛切な教えであります。
 確かに学問の第一条件はここにあると思うのです。

 窮するということ、心配事というものは、人間として常にあることで、世に処する以上、免れないことである。
 しかしそれだからといって精神的にまいってしまうということでは、我々の人格の自由や権威はないわけであります。

 戦前アメリカに行ったとき、大学の心理学者や精神分析の大家が集まって、学生や社会人の生活と精神状態についての調査報告を読んだことがあります。

 その中の重大な項目として、我々が何か困難な問題にぶつかった時とか、失敗した時とかに、自分の心に動揺を生じはしないか。
 どんな動揺を生ずるか。それをいかに処理し得るか。
 そういう困難や失敗に直面して、心に不安動揺を生じても、それが直ちに自分の生活に響くか、響かないか。
 心の平静を失って、そのため仕事も何も手につかなくなることがありはしないか。
 たとえいろいろの不安困惑を感じても、それを抑え、それを処理し、平然として変わらずに仕事ができるかどうか。
 これは人格を決定する、自己の価値をきめる問題として、重要な項目にしておりました。

 これはつまり筍子の流でいえば「窮して苦しまず、憂えて意衰えず」ということであります。これができて初めて我々の人格に、主体性・自主性・自立性、即ち自由というものができたことになる。

 学問・道徳・宗教を修めるということは、人間がもっとも人間らしく、もっとも自然、真実に錬成されることであり、人間を廃業することではない。

 繰り返し繰り返し鍛錬しないと自分のものにならないので、継続できるよう頑張ろう。

 「知命と立命」には、荀子を紹介しながら「本当の学問というもの」を説明されていた。
 全くその通り、そうだよなと思う。

 しかし残念がら自分に当てはめるとダメなことに深くため息をつかざるを得ない。
 自分はすぐに腹を立てるし、短気丸出しで、どうも人格修養がなっていない。短絡的なところがあり、人間としての深みに欠けるんだよな。
 全く人間修養のできていない人間であることが痛切に思い知らされるた。

 真の学問をして、人格形成の山を登らなくてはいけないと感じた。

安岡正篤先生著述の「知命と立命」