ひたちなか市の貴重な地域資源を後世に残しています

2020年1月12日

 ほしいもで有名なひたちなか市ですが、大変貴重な文化財がひたちなか市に現存しています。

世を動かす諸藩の志士たちがくぐった山上門

 那珂湊反射炉跡の近くにある山上門は水戸藩江戸小石川邸(現在の東京都文京区小石川町)正門右側の門で、江戸時代後期に勅使奉迎のために特に設けられた門で、小石川邸の建物はこの門のほかは全て失われており、今日残存する邸唯一の建築物です。名前の由来は、後に小石川邸内の山上に移築されたことによると言われています。

 昭和11年に那珂湊出身の深作貞治氏が、当時の陸軍省から払い下げを受け、那珂湊の当地に移築し保存したもので、昭和32年に那珂湊市へ寄贈されました。

水戸藩江戸小石川邸正門右側の門「山上門」です

 この門は、幕末動乱期には佐久間象山(兵学者)、横井小楠(政治家)、西郷隆盛(政治家)、江川英龍(兵学者)、橋本左内(思想家)ら幕末・維新史上重要な役割を担った志士たちがこの門をくぐり、小石川邸に出入りしたと言われています。

幕末の国土を防衛、「那珂湊反射炉跡」

 江戸時代末期、那珂湊沖にも異国船が出没するようになり、水戸藩第9代藩主徳川斉昭が、海防の要を唱えて領内各地に砲台を築くため、大砲鋳造を目的として、高熱で鉄を溶かす反射炉をつくり、鉄の大砲を鋳造しました。ここで鋳造した大砲は28門以上、幕府へも献納されました。元治甲子の乱(1864年)に破壊され、昭和12年に現在の模型が、ほぼ原型どおりに復元されました。

那珂湊反射炉跡です。

双頭の煙突が当時の技術の高さを物語っているようです。

鋳造した大砲の模型です。

反射炉のレンガはここで作られていたレンガ焼成窯(復元模型)

 反射炉建設には、高熱に耐えるレンガの製造が必要で、この窯は、ここの反射炉に使用した白色耐火レンガを焼成するために築かれた窯の復元模型になります。

反射炉建設のため、レンガを焼成する窯があります。

 レンガ製造には、当時の水戸藩領であった栃木県馬頭町小砂の陶土や、水戸笠原の粘土、久慈郡のヒウチ石の原料を用いて、名人と言われた瓦職人「福井仙吉」の製陶技術と、建設関係者の苦心の末製造していったそうです。

 製造されたレンガは約4万枚と言われており約1200℃~1600℃の高熱にも耐えられ、現代の耐火レンガに近いものです。

 鎖国をしていたころの外国との牽制する緊張感が垣間見れます。外国船が茨城沖にまで来てそれに対抗しようとする日本の時代背景を表していますね。

ひたちなか海浜鉄道湊線があるいつもの風景

 ひたちなか海浜鉄道湊線は大正2年に運行を開始した歴史ある鉄道です。JR東日本勝田駅(1番ホーム)を起点にし、阿字ヶ浦駅を終点とする営業キロ14.3kmの全線非電化です。

 国内現役最古級のディーゼルカーや築100年を超える那珂湊駅、車窓には北海道を思わせる広大ないも畑や田園などが広がり、東京から特急で1時間少々とは思えない情景が人々をレトロな世界に導きます。

築100年を超える貴重な木造駅舎の「那珂湊駅」です。

 こちらは築100年を超える貴重な木造駅舎の「那珂湊駅」です。「関東の駅百選」にも選ばれたひたちなか海浜鉄道のメインステーションになっています。

 那珂湊駅から発着する車両を動画に収めましたのでよろしければご覧になってください。

【動画】上り列車が那珂湊駅のホームに入ります

【動画】下り列車が那珂湊駅から発車します

 那珂湊駅舎に入ってみると、車両の模型や引退した「キハ222」の青い車体の雄姿が飾られていました。

引退した「キハ222」に関する記事です。 「キハ222」の青い車体が鮮やかです。


春の桜と「キハ222」 水田に映る車体が美しい。

 また、最近の新しい車両の模型が飾ってありました。

3710の新しい車両です。

 湊線初の冷房車で、車内はロングシートで定員は座席55人、立席68人の計123人です。後ドア付近に車椅子スペースもあるそうです。

 形式の3710は“みなと”にちなんだものです。平成21年度に開催された「車両デザインコンテスト」の最優秀作品「曙光(しょこう)の大地」へ塗替えが行われました。

 平成22年2月14日から現デザインで運行しているそうです。緑のボディーが美しく映えています。

 先般の震災で全線運休停止となった時期もあり、乗客は大きく減ってしまったそうです。ですが、元気を取り戻して行き、今では地域の愛される鉄道として震災前に戻る勢いで今日も運行しています。

 ひたちなか海浜鉄道はひたちなかの田園風景と車両のコントラストが絶妙で鉄道ファンにはたまらない鉄道の一つだと思います。

 より多くの方にひたちなか海浜鉄道を楽しんでもらいたいですね。