水戸藩2代藩主水戸光圀公が暮らした西山荘は歴史を感じさせる佇まい
水戸光圀公の最後の地「西山荘」
水戸藩2代藩主水戸光圀公が江戸を離れて「大日本史」を編さんするために西山荘で隠居生活を送られてきました。
(写真はお休み処桃源にある西山荘のペーパークラフト)
華やかな生活を嫌った光圀公らしい自然豊かな常陸太田の地で古風な佇まいを装う西山荘とともに亡くなるまでの10年間を過ごされたそうです。
光圀公は近くに住む領民とも親しく交流していたそうです。その証として、家臣や領民が出入りする通用門(裏門)があるのですが、通用門は突上御門(表門)より立派に作られており、このことから領民のことを大事にしていたことが伺え知れます。
写真掲載が禁止されているので西山荘そのものをお見せすることができないのが非常に残念ですが、光圀公が最後まで「大日本史」の編さんを進めた趣のある西山荘を歴史を感じながらご覧になってはいかがでしょうか。
(写真は西山荘にほど近い「西山の里」を撮ったもの)
以下に西山荘のパンフレット資料をリンクで張り付けておきますので宜しければご参照ください。
平成の大修理が終わりました
もうまもなく、4年が経とうとするところですが、先般の東日本大震災では茨城県も大きな被害を受けました。震度6弱の強い地震に襲われた常陸太田市にある西山荘も同じく被害に遭い、御殿は傾き、土壁もひびが入り、磁石のずれなどが生じました。
以下に「平成の大修理」についての資料のリンクを貼りつけておきますので参照していただければ幸いです。
名家臣「助さん」が暮らしていました
テレビの水戸黄門でおなじみの「助さん」の住居があった場所に行ってみました。光圀公にお仕えしていた家臣として西山荘からほど近い場所に住んでいたそうですね。
西山の里から住居跡に向かう途中はこのような道を歩いていきます。助さんもこの道を通っていたのでしょうね。
今では跡地ですが、当時使用されていた井戸があり、実際に生活していたのが分かります。
助さん(本名:佐々木介三郎宗淳[ささき すけさぶろうむねきよ])は35歳のとき、黄門様に招かれ、彰考館の史臣となりました。黄門様とともに全国各地を訪ね、貴重な古文書を収集して「大日本史」の編さんに携わりました。
西山荘を見学してみて
この常陸太田の地で私たちが良く知る黄門様が暮らしていたのだと思うと茨城県人として身近に感じる歴史上の人物だと深く考えます。光圀公の功績が今のあらゆるところで黄門様を題材にした様々なものがあるのだと思い水戸光圀公は偉大な方だと思いました。まだ、観光されていない方がいらしたら一度は光圀公の歴史に触れてみるのもよろしいかと思います。
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